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村瀬 千絵子 | 2007年5月28日 |
菅野 意智子 | 2007年5月27日 |
中川 千文 | 2007年5月27日 |
宮 秀雄 | 2007年5月23日 |
望月 喜子夫 | 2007年5月19日 |
山口 茂 |
2007年5月12日 |
中川 順一郎 | 2007年5月5日 |
栗田 ひろし | 2007年5月3日 |
五井 卓 | 2007年5月3日 |
村瀬 千絵子 むらせ ちえこ |
2007年5月28日
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戦争はイヤです。これほど無駄なものはありません。戦争ほど恐ろしい ものはありません。昭和二十年六月の静岡大空襲の時、小学生の私 は、母に手を引かれアメリカの爆撃機B29の落とす爆弾の中、炎の街を 逃げ回った記憶は、今でも鮮明に残っています。 この六十年、日本中のだれも戦死した人はいない。世界中のどこの国 とも戦争をしていない。これが九条の力だと思います。現在の平和を、あ たりまえのように甘受している私たちの頭の上に、いつミサイルが飛んで くるかもしれない世界情勢です。今九条を変えようという動きがあります が、とんでもないことです。いまこそ九条を守るべき時です。 |
「B29が落ちる」
村瀬 千絵子 (当時 9才 富士見町)
B29はキラキラと、夜目にも美しく銀色に光って落ちていく。すごい衝撃であった。
それから後もずっと、B29がまっさかさまに落下してくる夢を見た。
『 画集 静岡市空襲の記録
街が燃える 人が燃える 』より
絵:村瀬千絵子「B29が落ちる」 『画集 静岡市空襲の記録 街が燃える 人が燃える』より
菅野 意智子 すげの いちこ |
2007年5月27日
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私は77才です。小六の冬に日米開戦、春には兄の様に慕った先生を大泣きに泣き乍ら戦地に送り出しました。最愛の父や兄を徴兵された級友の深い悲しみが子供心に伝わりました。戦況の長期化、激化と共に国民の生活は窮乏を極め、私は「大人達はなぜ戦争の始まる前に反対してくれなかったのか」と思ったものでした。 この処、教基法「改正」や改憲手続き法の国会提案、可決と戦争が足早に迫っています。此処で改憲を阻止しなければ又戦争になります。愛しい子や孫に塗炭の苦しみを遇わせない為にと頑張ってみたものの、国会は多数決で可決。併しこの多数決は郵政民営化によって泡の様に生まれた郵政議員らに依る多数です。そう思うと本当に悔しいですね。これから日々の生活は苦しくなるばかりですが、お互いに「貧すれば鈍す」とならぬ様に、世間の動静をよく見なければと思います。そして戦争反対の一点で手をつなげる人を九条の会にお誘いしてゆきましょう。 |
中川 千文 なかがわ ちふみ |
2007年5月27日
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私は高校の家庭科教員です。安部首相の数に任せた強引なやり方は許せません。それに、投票法の「18才以上」は、今の若者と教育を見くびり馬鹿にしています。怒りは二倍です。 しかし負ける訳にはいきません。投票法が通ってから、「憲法9条が変えられたら、貧しい若者が戦争に行かされるんだよ。税金も上がるし、戦争になったら食糧は来なくなるんだよ。」などと毎回の授業で内容に合わせて語っています。時間は3年しかありません。 |
宮 秀雄 みや ひでお |
2007年5月23日
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1941年生まれの私は、東京の下町で度重なる空襲を受けたが生き残った。戦後、小学校時代に担任教師に強く影響を受けた。彼はくりかえし強調した。「戦前の軍国主義と天皇制教育はまちがっていた。再び国にだまされるような国民になってはいけない。多くの犠牲とその反省の上に新憲法がつくられたのだ。これから皆で民主主義の社会をつくってゆくのだ。民主主義は徹底した相互の討論の上に成立するのだ。君達、討論せよ。発言せよ」と熱く説かれた。これが私の戦後教育の原体験である。 憲法を教え民主主義について青年達と語り合いたいと思い、高校の社会科教員になった。・・・以来40余年。その憲法が危ない。 |
望月 喜子夫 もちずき きねお | 2007年5月19日 |
「アメリカ人の一言」 数十年前の事ですが、ちょっとした事で知り合ったアメリカ人(男性)の一言が、今でも忘れられないで、私の耳に残っている。 その一言とは、「日本人がうらやましい」と云う。「何が?」と問い返した私に彼は、「太平洋戦争に勝利しても、アメリカ人は今でも戦場(当時ベトナム戦争中)に駆り出され、多くの若者が戦死している。敗戦国の日本は、あの戦争以降一人の戦死者も出していない。そうした日本人が本当にうらやましい。」と、自国の政治を嘆いていた。 彼がうらやむように、現在まで戦争に巻き込まれる事無くこれたのも、現在の平和憲法があったればこそと思う。 |
山口 茂 やまぐち しげる |
2007年5月12日
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戦後20年目に、新潟のお母さんたちが作った反戦を訴える小冊子が私の手もとにあります。それによると、ある集まりで、一人の若い女性が言ったといいます。 「この前の戦争のとき、どうしてお母さんたちは、戦争反対で立ち上がってくれなかったんですか」 戦前の社会―少しでも反戦を口にするとすぐ特高に捕まり、戦争の真の様子は国民には全く知らされない全体主義の国―で、どうして戦争反対が言えたでしょう。
今はまだ自由に自分の意見を言えます。今のうちに「九条を守る」行動に立ち上がりましょう。
(S18年12月生まれ)
著書 『知られざる西南戦争』 『輝いていた日々』・他 |
中川 順一郎 なかがわ じゅんいちろう | 2007年5月5日 |
「憲法九条は世界の誇り」 昭和十九年(1944)十二月、台湾で軍隊に召集され、敗戦まで僅か九ヶ月間でしたが太平洋戦争に参加させられ、同じ部屋の友を失ったり、自分も二度死に直面しました。 戦後教職に在って、文部省から「新しい憲法のはなし」の本が各学校に配布され、日本は兵器を持たないで戦争を放棄する憲法九条ができ、これは世界に誇るすばらしいことですと示され、私はこのことを生徒に訴えてきました。 また、私達教師は「教え子を再び戦場に送らない」と誓い合ってきました。 今の日本は九条があっても膨大な軍備があります。九条が変えられたら、核兵器を持とうという論議もでてくると思います。 今こそ、憲法九条改正に絶対に反対します。 |
栗田 ひろし くりた ひろし | 2007年5月3日 |
私は陸軍幼年学校の二年生として終戦を迎えましたが、戦後の学習の中で日本が起こして来た戦争が、「平和」や「自衛」のための戦争でなく、領土拡張のための戦争だったことを知りました。私は俳句作家として、日本の自然、風土、そこに生活する人々を愛して作句していますが、戦争はそれらすべてを壊してしまいます。 戦争が廊下の奥に立ってゐた これは渡辺白泉の句ですが、そんな不安を感ずる日本になって来まし た。憲法改正を急ぐ動きもその大きな一つです。武力で真に平和な世界 はつくれません。憲法九条を守るため微力をつくしたいと思います。 |
五井 卓 ごい たかし | 2007年5月3日 |
「戦争を知らない世代が親になり、戦争の悲惨さ、平和の大切さをどのように子どもたちに伝えていくか。」それをコンセプトに取り組んできました。この平和な社会が戦前のような社会に後戻りするわけがないと誰でもが思っています。しかし、先の大戦で日本が侵した数々の蛮行を、隠蔽しようとする動きが強まっている現状を見た時、本当に安心しきっていて大丈夫なのだろうかと不安を感じざるを得ません。 | |
共産党員が迫害された。 私は少し不安だったが私は党員でないからじっとしていた。 社会党員が迫害された。 私はさらに不安を感じたが私は党員でないから、やはり沈黙していた。 学校が、図書館が、ユダヤ人が弾圧された。 自分はそのたびに不安を増したが、やはりなお私は行動にでなかった。 教会が迫害された。 私は牧師だから立ち上がった。 しかし、その時は遅すぎた。 牧師 マルチン・ニーメラー |