大坪 昌平(著) 画文集『光を捉える』の中から6点を、大坪さんの了解を得て転載しました。

エッセイ1 故里の山、竜爪山

エッセイ2 聳え立つ富士山

エッセイ3 湿原の王者

エッセイ4 シラサギが舞って

エッセイ5 山ざくらの頃

エッセイ6 初夏の光に包まれて


エッセイ1

故里ふるさとの山、竜爪山

                          平成六年

 

 「富嶽ビエンナーレ展」入選通知あり。平成六年十二月十日。
 今回から「富嶽大賞展」は発展的改組となった。
 この作品は梶原山かじわらやま一本松いっぽんまつ公園中腹からの長尾川ながおがわ中流域に連なる竜南の村々の景色である。
眼下は北沼上きたぬまがみ地区、北沼上小学校があり、右山裾は下長尾、正面の二峯は左文殊もんじゅ、右薬師やくし岳である。奥まった村は平山ひらやまである。
 竜爪山系の南に伸びる支脈が、旧西奈にしな村、旧高部たかべ村の境を為している。一本松公園はこの中間に位置している天下の絶景で、東、清水港が直下に、向かいに伊豆の山々、東に富士山が長い裾を引いてそびえ立つ。南、輝き渡る駿河湾の果ては、焼津やいづが、晴れた日は遠く御前崎おまえざきが望まれる。西、北の山々は幾重にも連なる南アルプスである。

 こんなよい景色を眺めながら、山の日溜まりで絵筆がとれるのはもったいないことだ。アマチュアながら絵の描けるもののみの知る醍醐味である。

大坪昌平 【山の上から】 1994年 116.7×91.0
大坪昌平 【山の上から】 1994年 116.7×91.0


エッセイ2

聳え立つ富士山

 平成十二年一月十四日(金)快晴・四月陽気


 
富士山。鈴川毘沙門天の大屋根の見える付近にて、浮島の葦原の土手より。
 これが、今年度分個展の最後の作品である。どうしても富士を一枚―と念願していたのが漸く実を結んでまずよかった。つい先日も天気予報では、日中晴れというので出掛けたのだが、その日は予報は外れて富士はついに姿を見せず、付近まで来ていながら引き返した。
 そしてきょう。予報は的中。九時到着(ここまで四十キロ、一時間要)、すぐ描き始める。車中にて弁当。寸暇を惜しんで続行、三時まで。車中にミニイーゼルを立て、制作する。「まあこれでいいだろう」となるまで、約六時間の没頭であった。
 富士に真向って白冠雪、裾野の濃紺、手前の山々は冬の濃青紺色、前景が冬枯れの穭田のクリームと葦という、白、紺、クリームの華麗な色合せであった。
 念願の一枚「富士」10号を今個展に加えることが出来てまず「よし」。自宅から鈴川浮島沼までは四十キロ、所要約一時間、その気になれば何処もわずかな距離なのだ。

 

 穭田(ひつじだ)‥‥刈り取った後の稲の切り株一面に、青々とした稲がふたたび生え出た田をいう。

大坪昌平 『新雪の富士山』 2000年 53.0×45.5㎝
大坪昌平 『新雪の富士山』 2000年 53.0×45.5㎝ クリックで拡大します。


エッセイ3

湿原の王者

 平成十二年六月十五日

 

 麻機(あさばた)湿原シリーズと名付けて、暇さえあれば沼に出掛ける。沼は、いろいろ整備されて、荒れ放題だったのが、いまは湿原として大ぜいの人達の憩いの場になっている。この大きな楊(ヤナギ)は、流通センター前に立っている。昔の広い沼を横断する舗装道路の傍らに、この湿原ナンバーワンの大木は堂々と枝を広げている。
 麻機(あさばた)沼の湿原は楊が多い。柳も少しはある。楊柳(ようりゅう)とひと口に言われるが、楊は上に伸びるヤナギ、柳とは枝が垂れる種類のヤナギといわれる。
 この大楊は、秋の黄葉も見事である。何しろ、巨大であるから、一本を描くことで絵になる。クリーム色の草原の中に数本の幹がひと固まりに黒々と根をおろしている姿も重量感にあふれている。この大楊の濃い繁りに、人間の男盛りの逞しさを重ね合わせて見たりする。堂々としている。草原を圧倒して立っている。

大坪昌平 『夏の盛りの大楊』 2000年 41.0×31.8
大坪昌平 『夏の盛りの大楊』 2000年 41.0×31.8


エッセイ4

シラサギが舞って

 平成十二年九月十一日(水)晴


 梅山、江川排水附近にて。ペットのエサ工場描く。
 私は、四季の移ろいの色彩にひかれて絵が描きたくなるタイプである。ところが、その時期の農家はすべて忙しいのである。
 春のさくら、新緑の夏は田植、田の草とり、秋は稲刈りなど。冬、西の風、寒風、冬の色彩は白く死んでいる。この期は意湧かず。という具合で、浅羽での約三十年、このもっとも描きたい時期には、「何時か」描こうとただ眺めることに徹していた。その代償は、今にして思えばあったと思う。ただ眺め続け、色彩を心に灼き付けた無念の日々がいまに生きている。心が集中すると瞼は閉じていても、その色が見えるのである。誰にも親しい人の顔は鮮明に浮かぶ。心に刻まれているからだ。絵にもそれがある。
 朝から出掛けた。かねて「此処」と目を付けていた。「江の端水門」附近である。コシヒカリなど、早生の大半は終わっていたが、刈跡の(ひつじ)田の新緑が、時ならぬ早苗田の色を副えていた。この世に存するあらゆる秋を代表するかのように、黄色を頂点とする色彩が広がっている。空にも、雲にも秋の色はある。風にも秋はあり、田んぼも、土手の草も、田の土も、すべてが、雲の色を反射しているのである。

 絵の具箱、水入れ、布、ティッシュ、筆が散らばって身動きもままならぬ車の中で弁当を食べた。
 まだ日は高い。大須賀の前川河口に、中天に架かる歩道橋下に広がる沖の海を三十分ばかり、ボールペンに淡彩を掛けた。F4。飼料工場B3はのちF50とした。九月十一日テロのテレビばかり。

大坪昌平 『田んぼの中の工場』 2002年 116.7×91.0㎝
大坪昌平 『田んぼの中の工場』 2002年 116.7×91.0㎝



エッセイ5

山ざくらの頃

 平成十五年四月二日(水)

              終日降る。さくらの雨、暖く煙る 

 

 雑木林の山ざくら。明日のしれぬ花の命。
 天気予報によれば、きょう二日は雨。明三日は大降りと伝えている。雨後の風は花見る人の怨嗟を浴びて花散らしの役を演ずる。吉野は芽に先立って咲く。三分・五分・七分咲くまでは花も羞らうさくら色である。満開には雪の色となる。姥ざくらである。ここへ雨風は禁物である。雨風にあえば花びらの吹雪となる。
 さくらを賞でる人は、何も見物する人とは限らない。一刻の、花のすがたを描きとどめたい人もいる。花を描く人がいる。天気の回復を待つゆとりはない。追い立てられるように雨の中を車を走らせる。かねて予定の、新田山の山ざくらに向う。
 山ざくらは赤芽をもって第一とする。赤芽のさくらは紅白の彩りを見せて春の盛りの山を飾る。青芽もそれなりの風情はあるのだが、何せ新緑の葉に覆われて目立たないのは惜しい。目指す山ざくらは満開だった。花の雨に煙っていた。茶畑のうねは、うっすらと新茶が萌え初め、まわりの雑木林も潤んでいる。さくらの背景の役を演ずる桧の林の濃いブルーに、いやが上にも映えて、いまが盛りの赤芽の山ざくらは咲いていた。
 水彩画は好天がよい。水で描く絵だから雨の日は乾きがわるくて困る。興が乗って、一気に筆を進めたいのにイライラする。待ちかねて色を乗せると大抵失敗する。それに雨の日は、明るいところと暗いところの差が少ない。油彩絵具などのように絵具自体が強くない。だから明暗の対比のハッキリしている好天が適している。散り急ぐ山ざくらは描き手の焦りを待ってはくれない。雨の中のスケッチは私には珍しいことである。しかし思わぬ取り得もあった。明と暗の強い対比がなく、全体が雨に煙っているから、景色が軟らかいのである。
 午後、辺りをまわってみたが、どこもかしこもさくらが満開だった。描きたいところだらけだった。これだからさくらは困る。いっぺんにくる。そのくせ、四~五日すればどこかへいってしまうのだから。

 大坪昌平 【山ざくらの頃】  2003年 41.0×31.8cm
 大坪昌平 【山ざくらの頃】  2003年 41.0×31.8cm


エッセイ6

初夏の光に包まれて

平成十五年五月四日(日)快晴 安倍街道賑わう 

 

 「真富士の里」の広場にて。におい立つ新緑だ。
 新緑はさくらの後を追うように訪れたか―と思う間もあらばこそ、連休(五日の)を境として立ち去ってしまう。ゆくさくらを惜しむ人は多い。が、去る新緑を嘆く人は少ない。鯉幟りがはためく。野山が輝く。山ではお茶刈りが忙しい。微風に若葉の葉裏が白く騒いでいる。新緑にはやはり微風は風物詩だ。鯉を泳がせ、山々の新緑をそよがせる。
 新緑はなぜ行き急ぐのであろうと思う。誰もが、喜んでいるのにと思う。皐月五月の薫風は一日も長く居続けてもらいたいとは、誰しもが考えているだろうに。静岡の平野辺りは、すでに夏の色に衣替えを済ましている。つい、数日前の黄色や白灰色や、淡い緑は消えて、濃い緑へのお色直しである。「待てしばし、新緑」と願う人もいるというのに、何故、足早に、新緑はゆくのであろう。
 幸い真富士の里の辺りはまだ新緑の盛りであった。ここは安倍川もかなり上流である。近くの山から茶刈機のエンジンが響いてくる。連休を楽しむ車がひっきりなしに通る。この物産店に立ち寄る人が画架を立てているのを見て見物にくる。安倍峠はまだ冬の山だったと話した人がいた。
 新緑はさくら前線と同じく、気温の上昇を追って移動する。平野部は日を追って夏の粧いを濃くするが、それにさきがけて新緑は高い山々や、川筋を遡る。安倍川は平野部から、いま中流域に達したところである。
 一口に新緑というが、樹の種類によって芽吹きや、芽吹きの色が違っている。落葉の早いものは概して芽吹きが早く、常緑樹は遅い。
 楠(くすのき)の芽は遅い。いま出始めだ。楠若葉といわれるように、ゆっくりと衣を広げる。この樹は、何れも、大木巨木である。神社の杜や、お寺の森の多くはこの木によって覆われ、これから初夏まで、ことしの新緑の殿(しんがり)を務める。

大坪昌平 『山峡の新緑』  2003年 53.0×45.5
大坪昌平 『山峡の新緑』  2003年 53.0×45.5