[1] 憲法遵守は日本人の英知   投稿者:黒田 昭彦    投稿日:2007/06/29(Fri) 23:23:10

 憲法施行から60年が過ぎた。その間、わが国は憲法が定める平和国家として戦闘に巻き込まれることはなかった。できることなら未来永劫に戦争に加担しないよう努めなければならない。そのためには是非とも現憲法の戦争放棄の基本原則は堅持しなければならない。
 だが皮肉にもわが国に平和憲法を押しつけたアメリカが、朝鮮戦争を機に軍備を強制し、今や世界に冠たる軍事大国に変容している。それでも戦争放棄の存在が、戦闘遂行を阻止してきた。湾岸戦争、イラク戦争で武力介入ができなかったのは現憲法の足かせがあったからに他ならない。
 押しつけ憲法を授かり、憲法として遵守することが、日本人の知恵である。敗戦時の日本政府には、新憲法を制定するだけの理性はなかった。それに不磨の大典といわれた明治憲法はドイツのプロシヤ憲法の継受法、つまり譲り受け憲法であった。
 時代・状況こそ違え、両憲法ともわが国で認知されて育った。是は是として尊重すべきである。


[2] 翻弄される第九条   投稿者:黒田 昭彦    投稿日:2007/07/04(Wed) 23:43:21

 戦争放棄はマッカーサー草案で指示され、第九条として規定された。だが、その後の共産主義勢力の拡大による世界情勢の変化で、半世紀を越えて翻弄され続けてきた。
 その一、国内では
 1946(昭和21)年6月国会(衆議院)での攻防
 共産党・野坂参三議員の代表質問
 独立国が自衛権をもつのは当然だから戦争一般ではなく侵略戦争の放棄とするのが的確ではないか。
 内閣総理大臣・吉田茂の答弁
 国家に正当防衛権を認めること自体が、戦争を誘発する原因となり有害無益である。
 それが朝鮮戦争が始まり、アメリカから警察予備隊という軍隊の卵を強制された52年3月の吉田首相の答弁
 国として独立する以上は、その独立を保護し、安全を保障するためにいかなることもできる。憲法九条はこれを禁止したものではない。
 というように変わった。それに戦事は戦車ではなく特車である、の奇弁までいうありさまだった。
 その二、アメリカでは
 アメリカ本国では、第九条を余計な迷惑条項とみていた。戦争放棄を指示したマッカーサー自身も離日までに3回にわたり第九条の改正を検討するよう言及していた。51年5月の上院の外交・軍事合同委員会の尋問では戦争放棄は幣原首相(憲法改正時の初めの総理大臣)の発案だったと証言した。マッカーサーの部下で、憲法改正責任者だったケージス民政局次長は後年、日本人記者に第九条は昭和天皇の発想によるものだったと弁明した。二人ともアメリカの国内世論に対しての責任のがれからである。ニクソンは副大統領時の訪日で、第九条の改正を勧告した。自衛隊をアメリカの戦力に使いたいからである。アメリカにはバンバーグ決議といって、安全保障条約を締結している同盟国には相互義務としての集団的自衛権を義務づけている。
 自著『勉強しよう 日本国憲法』より抜粋


[3] 押しつけ憲法といわれる理由の分析  投稿者:黒田 昭彦 投稿日:2007/07/08(Sun) 11:01:06

 日本はポツダム宣言を受け入れることで、敗戦を迎えました。1945年8月14日のことです。ポツダム宣言は18ヶ条から成りますが要約して次の3ヶ条になります。
 1 軍国主義勢力の除去
 2 領土の限定
 3 徹底的な民主化
です。だが憲法改正の直接のきっかけは次の通りです。45年10月4日に東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)内閣の総理大臣代理の近衛文麿(このえふみまろ)がGHQに呼ばれました。マッカーサーは
①国民弾圧法の治安維持法、特高法等15法律の無効
②思想犯の即時釈放
③表現の自由の保障
を指示しました。
 翌日の5日、東久邇内閣はそれでは内閣は続けられないと辞職してしまいました。9日に後継として幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣が成立しました。外務大臣吉田茂、憲法担当大臣松本蒸治です。この内閣が憲法改正を担当しましたが、途中で吉田茂内閣に引き継がれました。
 それではなぜマッカーサー・近衛会談で憲法改正問題が浮上したかを説明します。9月26日に戦争反対を主張して投獄されていた哲学者の三木清が獄死しました。その翌日天皇陛下がマッカーサーを訪問して記念写真を撮りました。天皇が礼服着用で緊張しているのに対して、長身のマッカーサーは平服で両手を腰にしてのラフの姿勢でしたが、その様は明らかに勝者・負者の対象図式でした。その写真が29日一斉に新聞報道されました。
 それを目にした天皇を神聖視し敬愛恭順してきていた閣僚達は恐懼震動(きょうくしんどう)の様でした。岩田迪法務大臣はすぐさま写真の発表禁止を、植木巌内務大臣は天皇制を批判・反対する輩は即刻投獄すると発表しました。それを知ったマッカーサーが近衛を召致したものです。
 上述の三点を指示された際、近衛は国会・内閣にも構造上で改めるところがあるかを質問したのに対して、マッカーサーは憲法の改正を指示したのです。これが憲法改正の動機の押しつけです。


[4] 押しつけ憲法といわれる理由(内容の押しつけ)  投稿者:黒田 昭彦    

                                          投稿日:2007/07/11(Wed) 10:46:57

 憲法の改正に着手した幣原内閣が作り上げた松本草案(自由党案・政府案とも呼ばれる)は明治憲法の模倣であって、彼らに憲法改正の真摯な態度はありませんでした。明治憲法第一条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」は、そのままで、第三条「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」は「天皇ハ至尊ニシテ侵スベカラズ」。第一一条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」は、「天皇ハ軍ヲ統帥ス」のありさまでした。
 その内容を伝達されたマッカーサーは、日本政府には委嘱できないことを悟って、自らが作成に踏み切りました。マッカーサーは改正憲法の基本を
1 天皇制の維持
2 戦争の放棄
3 封建制の排除
 を定めたマッカーサーノート(覚え書)をGHQの20名の改憲専属職員を選任して提示し、1週間内でマッカーサー草案の作成を命じました。一国の憲法草案を極く短期間で作成させたのは問題ですが、それには切迫した事情があったからです。
 日本占領にマッカーサー以上の権限がある極東委員会が天皇制を廃止する憲法を計画していたからです。マッカーサーはそれまでに改正憲法の骨子を作り上げ、既成事実を主張してその草案を除去したかったからです。
 国内でも政党・民間からの数草案があり、改憲職員は短期間での成立を迫められていたところ、より広く世界中の著名な憲法条項同様それらの日本側提出の草案も参考にしました。
 作成したマッカーサー草案を基礎に改正憲法は46年10月8日国会衆議院で賛成459票、反対5票(共産党)で成立しました。
 押しつけ憲法論はそのような経緯からきています。事実は事実として認め、それを生かすのがわれわれ国民の責務だと考えます。